注意事項

※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。

2013年2月18日月曜日

映画『ゼロ・ダーク・サーティ』85点




この監督(キャスリン・ビグロー)の前作、『ハートロッカー』は、

「評価が難しい映画」と感じ、その「プロパガンダ感」について
自分なりに試行錯誤させられる映画だった。


その答えが、この作品では少しだけ見えたような気がする。


今回もビグローの映画は、ビンラディンを追い詰め、
そして殺害に至るまでの過程を、CIAのマヤという優秀な女性分析官の視点を中心に
ドキュメンタリー形式で描いている。


まず言えるのが、映画全体を通してこのマヤを演じた
ジェシカ・チャステインという女優の圧倒的な存在感。














彼女のどこか哀愁というかもの悲しげな「目」は、
PRにも使用されている、涙が頬を伝うシーンに
象徴されるように、終始この映画が描く世界、
つまり「アメリカの対テロ戦争」が、いかに虚しく、
出口の無いものであることを象徴しているかのようだ。


この映画の冒頭は、今までの9.11以降のアメリカを
描いた映画には無い演出方法から始まる。

別にネタバレじゃ無いから書いても良いでしょ。

それは、真っ暗な画面に音声のみが流れるという手法で
9.11当時のおそらく警察無線の音声が流れるというもの。

助けを求める人の声が飛び交い、それはもう悲惨という言葉そのもので、
隣に座っていたスーパーサイズミーを体現したような
アメリカ人のおじさんが前のめりになって、頭を抱え、
見ていられない!みたいなジェスチャーに陥るほど。


そこから本当に淡々と、
主人公のマヤが徐々にビンラディンに近づき、
そして追い詰めるまでを描いていく。


そう、監督のキャスリン・ビグローは、
ハートロッカーも同様に、映画を淡々と、
とにかく淡々と、ドキュメントという方式を持ちながら
静かに描いていく。


ハートロッカーの時は、これが逆に胡散臭さを
感じさせる原因になっていた。自分的に。

一見「客観的」に見える映画に見せておいて、
ある方向に観客の思考を持って行こうとしていないか、そう感じてしまったのだ。


だが、今回「ゼロ・ダーク・サーティ」を見ていて、
これはプロパガンダ、反米、親米という
「思想」みたいなものを一方的に発信するのでは無く、

あくまでも

「これを見たお前らはどう思うの?」

という、観客に対して投げかける、
つまり、見ているだけで「こいつが悪い」「あいつが悪い」
みたいな勧善懲悪的二元論で、
観客が簡単に結論づけ出来るような
甘い映画では無いのだ。

拷問にしても、アルカイダにしても、
アメリカの対テロ戦争にしても、その賛否について
明確なメッセージ性はこの映画には無い。

だからこそ見ている側は、
適当な気持ちで見ていれば見ているほど、
何か煮え切らない、どうして良いか分からなくなる。


だからこそ、マヤは自分の任務である
「ビンラディン確保=殺害」を成し遂げ、
実働部隊の兵士達がハイタッチするように、
ガッツポーズすれば良いが、そうはならない。

彼女は涙を流す。


















それは歓喜の涙で無いことは、
彼女の表情を見れば誰だって分かる。

では、この涙は何なのか?
対テロ戦争の「無意味さ」を象徴する涙なのか?
それとも実は達成感=勝利の涙なのか?
その答えは僕ら観客に委ねられている。

全編通して観客は、スクリーンを通して、
そして、マヤというCIAの女性分析官を通して
対テロ戦争という現実を突きつけられ、
対テロ戦争に対するスタンスを求め続けられる。

そんな監督の強い意志が見事にまとめられた
優れた作品だと思います。
最近見た映画の中では『アルゴ』に匹敵する良作。

ただ一つ気になったのが、
ビンラディンの住処見つけるまでがはしょり過ぎなのと、
最も重要な「オバマがなぜ突入を許可したのか」という
点が描かれていないこと。
あえてなのかもしれませんが、煮え切りませんでした。

皆さんも是非、劇場で。

0 件のコメント:

コメントを投稿