注意事項

※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。

2013年8月31日土曜日

映画『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』採点無し


当たり前だが、この映画はAKBに「ある程度」興味が無いと、
見続ける意味は無いし、見続けることは出来ない映画だ。

今作で3作目となるAKBのドキュメンタリー映画だが、

最もスキャンダルが多発した時期の映画がこれ。


次々と恋愛スキャンダルが発覚し、

「握手会」という本来はファンからの声援を
最も近い距離で感じられるイベントで、
謝罪会見を強いられるという、
逆説を極めた光景を見せつけられるわけだが、
そこに映る映像は、圧倒的に「非情」で、「悲惨」だ。

中でも最も印象的だったのは、脱退するあるメンバーが、

無言で見つめるファンを前に、
泣きながら謝罪しているのを見つめるAKBメンバー。

その中の一人に指原氏がいるのだが、

指原氏は「もうダメだ、見てらんないわ」と、
まさに「公開処刑」という名にふさわしい、
その残酷な光景に耐えられず、その場をあとにする。

そんな「もう見ていられない」指原氏は、

その後、自らのスキャンダルが発覚し、
博多へと異動するわけで。

そしてその後、

圧倒的に自分よりも若いメンバーに囲まれ、苦しみながらも、
徐々にその立場を確立していく様子が描かれている。

しかし、この映画を観ていて単純に思えるのは、


「10代の少女達が、

 そこまでして恋愛禁止という呪縛にとらわれながら、
 頑張るモチベーションはどこにあるのか?」

ということだ。

始まりから終わりまで、
この映画を観ながらその疑問が浮かんで離れることは無かった。

もちろん、「公開処刑」を経て、

その呪縛から解き放たれること無く、
AKBを去る子達もたくさんいる。

それは「逃げ」なのだろうか?

「ファンに対する裏切り行為」なのだろうか?


いや、あの残酷な様子を映像で観たら、

むしろ辞めていった、
逃げ出してしまった子達の方がまともに見えてくる。

圧倒的な公開処刑に合いながらも、

公開処刑に合うリスクを常に持ち合わせていながらも、
彼女たちがAKBにこだわる理由は何だろうか?

それが今作のタイトルにもなっている

「少女たちは涙の後に何を見る?」というテーマであり、
その答えは映画の終盤に構成されている、
松井珠理奈の密着にあるように見える。

 11歳でセンターに抜擢された松井珠理奈は 、

「一見」迷いの全くない、
強い意志がみなぎった笑顔でこう言い放つ。

















「恋愛はいつでも出来るけど、AKBは今しか出来ない」 
さすが珠理奈!と、立ち上がりたいところだが、
果たしてどうだろうか。

時代は違えど
、一時代を築いたアイドルの大先輩であ
松浦亜弥は先日結婚した
そこで彼女はこんなコメントを発表した。

「私の青春には、すべて彼がいます」


このコメントは「アイドルとして」許されざるものなはずなのに、
その逆説性がより美しさを増すという不思議なものだ。

対照的な「アイドル」2人のコメント

ここから見えるものは何だろうか。

「正しい」のはどちらなのか?


そこに、正解なんてものは無く、
至極一般論的なことを言ってしまえば、


「選択するのは彼女たち自身。自己責任」


なのかもしれない。


だが、10代そこそこの女の子達に、
人生において重要すぎる「青春」を取捨選択させるシステムは
やはりどう考えても残酷の極地だ。

そんな残酷さを散々見せつけられた挙げ句、
最終的に、「一見」AKBを肯定的に捕らえて前を向く
松井珠理奈で終えているこの映画は、
最高のAKBプロパガンダ映画なのかもしれない。


だけど、そんな象徴とも言える松井珠理奈は、
体調不良で入退院を繰り返し、
最近では痩せこけた姿をテレビで見せている。



まるで「恋愛はいつでも出来るけど、AKBは今しか出来ない」と、

自らに言い聞かせ、鞭を打ち、
奮い立たせているかのように悲壮な笑顔で。


2013年8月30日金曜日

映画『スター・トレック イントゥ・ダークネス』60点


2013年8月30日鑑賞。

TOHOシネマズ六本木で3D鑑賞。



まず失敗だったのが、前作の『スター・トレック』を事前に復習しなかったこと。
2年前くらいにDVDで観たんだけど、ほとんどストーリーは覚えていないし、
主人公の仲間にドラマHEROESで敵役だった人が出てるなくらいの印象。

















その程度で鑑賞に臨んだものだから、序盤30分くらいまで
映画の世界観に全く入り込めず。

こういうシリーズリメイク、かつSFものって、
まずその世界観が好きであることの必要最低条件である気がする。

ってことで「スタトレ」と略すことにすら抵抗がある僕は、
終始どこにも感情移入できず、のめり込めず、
「あ~CGすごいな」みたいなクソみたいな感想しか得られず鑑賞を終えた。


そもそも、スタトレ好きじゃないやつが観るな!
みたいな映画なのかもしれないが、そこはちょっと待った。
一個人のしがないブログなのであるわけだから勝手に批評してみよう。


まず、監督のJ・J・エイブラムスという男はその天才的想像力が故に、














「自分の発想がドラマや映画のキャパを超えてしまう」


という、その才能を生かし切れないとても悪い癖があるように思う。


全て彼の作品を観たわけでは無いので、断定してしまうのは危険かもしれないが、
その代表例として上げられるのが、テレビドラマの『LOST』・『FRINGE』だ。

全てのシーズンを鑑賞したが、
間違いなくこの2作のベストパフォーマンスはシーズン1だ。


LOSTに至ってはシーズン6まであるくせに、
エイブライムスが仕込もうとした謎が謎を呼びすぎて、
最終的に全く回収しきれずに終わるという何とも消化不良な結末だ。

シーズン1の半分くらいまでは抜群に面白い。
その設定、脚本、謎が謎を呼ぶ展開、
これらは「24中毒」並みの中毒性を引き起こすものであったが、
エイブライムスの天才的発想力のせいか、
あまりにも多くの謎や仕掛けを作りすぎて、
途中からもはや何が謎で何が解決できているか分からなくなる始末。














(議論を呼んだLOSTのラストシーン。僕は理解不能でした。)




視聴者は謎かけさせられすぎて、整理できないまま観るから、
もはや何シーズンもまたいで登場するメインキャスト達の「生死」にしか
スリルを味わえなくなっていく。


FRINGEはその悪い癖がさらに早い段階から現れてしまい、
1話完結というLOSTにはないスタイリッシュなパッケージ感が
とても良かったのに、シーズン1終盤で、
「あっちの世界、こっちの世界」みたいな急激なオカルトSF感満載になり、
LOST顔負けの行ったり来たりごっこが始まってしまう。


きっと彼は自分の想像力が豊かすぎるが故に、
下手したら秒単位でやりたいことが浮かんできてしまって、
そのスピードや発想力にドラマ尺、映画尺がついていけないのではないか。


そんな勝手な個人的危惧は今回のスタトレでも思う存分に発揮されていて、
絶望的なほどに強かった今回の敵役(話題のカンバ-バッチが演じた)は、

















これからが本当の実力発揮なんだろうなと思わせた
地球上陸したとたんに驚くほど弱体化してしまい、
負けるはずが無かった肉弾戦で、
















主人公の敵を討つべく燃える耳がとんがった親友に負けてしまう。

(ついでに言えば、一度死んだ主人公がドラゴンボール並みの苦労も無く、
 あっさりと生き返ってしまうのも気にくわなかった)


え?ウソでしょ?あんなに強かったのに?
地球侵略する所こそ見せ場じゃ無かったの?

PR動画にもあるような地球にデカすぎる宇宙船が
ど派手に突っ込んで高層ビルが無残に破壊される画を
撮りたかっただけなんじゃ無いの?













そうとしか思えないくらい、あっという間に終わる。


それもこれも含めて、
主人公と耳とんがった親友との不自然に熱すぎる男の友情劇も、
「スタトレファン」であれば、たまらない世界観であり、
充分に楽しめる内容なのかもしれないが、
僕は残念ながらファンでは無いので、
至極まっとうな佳作作品としか観れませんでした。




2013年8月26日月曜日

映画『エンドオブ・ウォッチ』74点



2013年8月26日鑑賞。


警察映画としては一級品の作品だった。

まずこの映画の圧倒的な緊張感を生み出しているのが
車載カメラ視点と、主人公視点の一見「アナログ」な視点カメラだ。

CGブームに逆行するような、これらの映像が、
CGに全く引けをとらない臨場感を生み出している。

これはレベルや畑は違えど、同じ映像を扱う人間として非常に勉強になった。
細かくカットを割って正面、背後、など様々な角度から
人物を捕らえることで映像を構成するのでは無く、
あくまでも人間目線のみで描ききることで、他には無い臨場感を創出できる。
それをこの映画は改めて証明した。


さらに、監督を務めたデヴィット・エアーは、
同じく警察相棒ものでデンゼルワシントン
アカデミー賞主演男優賞に導いた『トレーニング・デイ』や、
同じく刑事ものとして評価の高い『S.W.A.T』の脚本を務めた
その実力には定評のある脚本家だ。


「これが、ロス市警のリアル」


というキャッチコピーにあるように、観客は
世界で最も危険な街、5分に1回犯罪が起きる街とも言われる
L.Aを画面を通して痛いほど感じ取ることが出来る。


自分はL.A.に行ったことは無いが、
遡れば名作『L.A.コンフィデンシャル』、
最近であれば『L.A.ギャング・ストーリー』がそうだが、
L.A.の警察を描いた映画を観ると、
L.A.なんてろくな街じゃ無い、ろくな人間も、ろくな警察もいない
そして、L.A.に行く気は全くなくなる。


で、この『エンドオブ・ウォッチ』も同様。
いまのりにのってるジェイク・ジレンホールと、
L.A.ギャング・ストーリー』でも良い味出してるマイケル・ペーニャ














相棒を組み、ギャングとの抗争に巻き込まれていく。

特にそのストーリーや展開に斬新さは無いのだが、
時折挟まれるこの二人の他愛の無い会話、
そこからにじみ出る二人の絆、友情、さらに愛する人との日常、
これらが街をパトロールするだけでも、ヒリヒリした緊張感に包まれる
警察業務と圧倒的な対をなしているため、
観客は「日常」→「非日常(警察業務)」の落差をより敏感に感じ取ることになる。


それがさらにこの映画の緊張感を高めている。
それがこの映画のストーリーとしての否斬新性を十二分に補っている。

警察映画としては非常に質の高い、観る価値のある一本であった。


2013年8月24日土曜日

映画『ホワイトハウス・ダウン』68点



2013年8月24日鑑賞。

まず『エンドオブホワイトハウス』とのテーマとの類似性に
苦笑せざるを得ないが、それでも観に行ってしまうのはエメリッヒ監督への期待感から。


彼の代表作でもある『インデペンデンスデイ』は小学校の頃に
劇場まで足を運び、有名な大統領の演説シーンに痛く感動し、
「インデペンデンスデイ!」という名言を家に帰って何度もまねした記憶がある。
それくらい好きな映画だ。


さて、内容の方であるが、説明には及ばない。
エンドオブホワイトハウス』と大きく違うのは、攻めてくる相手くらいか。
ホワイトハウスが攻撃されて、最終的に悪を滅ぼす。
そんな単純図式のエンターテイメント映画だ。


だけど、そんな単純図式だろうと何だろうと、面白かった。
個人的には『エンドオブホワイトハウス』より総合的に面白かった。

物語の尻すぼみ感は否めなかったけど、
エメリッヒの意地というか制作者としてのこだわり、粘り、みたいなものを随所で感じた。

時折織り込んでくるアメリカンジョークはその一つで、
エンターテイメントとしてこの映画を仕上げようとする監督の意図が
見え隠れしたが、劇場は心地よい笑い声で包まれていたし、
その意図は観客に伝わっていたのでは無いかと思う。


ホワイトハウス見学中に大統領に遭遇して、
携帯カメラ片手にインタビューしちゃう政治オタクの主人公の娘
















このシーンは良い。
「大統領!私のYouTube用にコメントちょうだい!」なんて言ったら
まさかの大統領OKで、カメラ目線でコメントしちゃうお茶目な大統領。
あり得るあり得ないのは無しはどうでも良くて、
この後の壮絶な戦いにさらされる大統領を手に汗握りながら応援したくなる
ちょうど良い、心地よい、フリになっている。


そのほかにも、随所でポップな小ネタは仕込まれているんだけども、
それは観てからのお楽しみの方が良いと思います。


そんな風に、この映画は「正義は勝つ!」という勧善懲悪カタルシスを
得られる上に、エンドオブホワイトハウス』ほど残虐性やシリアスさはなく、
その分差し引いたエンタメ感を徹底して搭載し、
かつドキドキハラハラ感もそぎ落としてはいない夏休みにぴったりの作品だ。



ホワイトハウスの警備相変わらず弱すぎでしょ!

核兵器ってそんな簡単に発射できちゃうの?

一番大事なところで敵は誤爆で自爆みたいなことあり得る?


とか、突っ込み所は満載だけど、鑑賞後さほどその矛盾感が残らず、
あー面白かった!スッキリした!
観たあと何も残らない!


っていう爽快感が勝つので、良い映画としようでは無いか。



もう終わってしまった夏休みかもしれないが、
カップルで観るなら『ワールド・ワォーZ』と『ホワイトハウス・ダウン』、
この2作で間違いありませんね。



2013年8月18日日曜日

映画『ワールド・ウォーZ』67点



2013年8月18日鑑賞。


立派な「ゾンビ映画」にもかかわらず、
「ゾンビ」感を一切排除したPR作戦を展開していたことを知った上で
鑑賞していた身でも、


「おい、これ完全なゾンビ映画じゃねーか!」


と、無駄な抵抗を起こしたくなってしまうほどゾンビ映画。



だけども、ご安心下さい。
この「ゾンビ映画」は、あなたが想像する「ゾンビ映画」ではありません。
そもそもあなたの想像する「ゾンビ映画」って何なのって話だけども、
近年で言えば、ドーンオブザデットを始め、
映画では無いものの大ヒット中の「ウォーキングデッド」。
このあたりがいわゆる「ゾンビもの」なのではないか。


自分はそもそもゾンビものが好きでは無い。
これは好き嫌いの問題だから、あまり熱く書いても仕方ないのだが、
ゾンビ映画にはリアリティーが欠如しすぎている。
なんだよ、そんなのSFだってそうだろ、
てか、そんなの映画ほとんどに言えること!
と、おしかりを受けるのは分かるが、
気持ち悪い顔と体をしたぐちゃぐちゃの人間が
人間を襲い、バッタバッタと斬り殺されたり、銃で粉砕されたり…
特にそんな点に快楽を感じないのだ。
ただ単純に気持ち悪い。

「ウォーキングデット」が魅力的なのは、
そんなゾンビ映画の特色は残しつつ、
(しかもかなり強烈にグロテスクにゾンビをぶっ殺すシーンを描いている)
終末を迎えた絶望的な地球に生きる人間達の泥臭い、
醜い深層心理をこれでもかというくらいリアルに描ききっている点だ。


話がそれてしまったが、そういう意味で『ワールド・ワォーZ』は、
新しいゾンビ映画のジャンルを開拓したように思える。


この映画は「ゾンビ感」を徹底排除したPR作戦そのままに、
確かにゾンビは出てくるのだが、
その詳細はさほど描かれていない。

もちろん気持ち悪い顔して人間を襲うし、
あり得ないスピードで走るし、
噛まれた人間はまたゾンビ化するという
お決まりのゾンビなのだが…

ウォーキングデッドほど、
あからさまにゾンビをぐしゃぐしゃと斬り殺したり、
撃ち殺したり、腕を引きちぎったり、
顔にナイフをぶっ刺したりしないのだ。
つまり、ゾンビ映画にあり得るべき、グロテスクさはほとんどない。


あるのは不自然なほど最強の元国連職員ブラピパパの、圧巻の格好良さ、











そして、ゾンビ化する地球という絶望的な世界を、
ゾンビというフィクションの極みに頼りきらず、
あくまでも極限パニック映画として徹底して描ききる監督の職人技である。



どうせブラピが格好良く地球を救うんだろ?



観る前からおよそ99%の人間が
この映画の結論を予測できる作品にもかかわらず、
120分間ほぼ退屈すること無く、
なんならハラハラドキドキしっかりしながら、
ブラピ頼むよ!頑張れ!なんて手に汗握りながら観てしまう。


とくに大量ゾンビシリーズのCG技術は圧巻で、
終始この映画の絶望感を支えるにたる圧倒的迫力とリアリティー。
あと何年あれば日本のCGはこの技術に追いつくの?なんて
別の方向の絶望感すら味わえてしまう。


















という具合にエンタメゾンビ映画として完成されたこの作品ということで、
劇場内の客層は、ゾンビ映画好きよりも、
カップルや親子連れ、中高生男子集団など、
エンタメを求めてきたのであろうと思える階層が主となる。


3Dメガネをかけながら、カップルや友人とワーキャー言いながら、
手に汗軽く握って、2時間を過ごす夏休み映画としては最適の一本です。

ただやっぱり言えることは、この映画はブラピじゃないと成立しない。
彼の存在感と格好良さがあるからこそ120分間観れてしまうのだ。

2013年8月10日土曜日

映画『パシフィック・リム』75点




2013年8月10日鑑賞。

同日に観た『風立ちぬ』との色んな意味でのギャップが尋常ではなくて戸惑う。



映画の感想を先走って書いてしまえば、

「あー面白かった!」

その一言に尽きるし、それ以外無いし、それだけの映画と言えばそう。



日本アニメ(ガンダム、エヴァ)、日本特撮(ゴジラ)へのオマージュという
最低限の知識を持っていなかったとしても、
鑑賞開始後、すぐにそれをつかみ取ることが出来る。

そう、つまりこの映画は「オタク映画の極地」である。
全ての少年達があの日描いた夢をそのまま映画にした、そんな超娯楽大作。


監督のギレルモ・デル・トロ自身の夢、
そして僕らが少年時代に描いた夢、

ウルトラマンなどの人形を片手に、
「ウルトラマンキック!パンチ!」とシャウトし、
ガンプラを必死に組み立てて、自分のお気に入りのポーズをさせて飾ったり…

そんな男であれば誰しもが幼き日に目を輝かせて想像していたことが、
この映画では、映画の中で現実となっている。














こんな風に人間が乗り込んだロボットは、その人間の脳とシンクロして、
クソでかくて、クソ気持ち悪い、やられる前からボコボコにやられて欲しい感満載の
怪獣(映画内でのこいつの名称が「カイジュウ」なのがまた良い)を、
ボッコボッコにぶん殴る、蹴る、撃つ!!
なんたるカタルシス!



だからストーリーや心理描写なんてどうでも良い。
芦田愛菜の世界に通用する表情の演技力も
















菊地凛子の存在感も、映画評的には良かったのかもしれないが、
そんなのもどうでも良い。

会話とかストリートかどうでも良いから、早く戦闘シーンを見せてくれ!
そういう映画。それがとにかく面白いし、気持ちいい。


ただ一つふと思ったことがある。
IMAXとかで本当は観るべき何だろうけど、
少なくともTOHOシネマズ六本木では、

「画が暗いよ!もっと明るいところで見せて!」

と思う箇所が何カ所かあった。
それは元々素材自体が暗いからかもしれない。
CG技術の穴をできる限り排除する方法が暗くすることなのかもしれない。

だが、どうだろう。
我らがアニメ、特撮大国日本が誇るゴジラ(個人的にも大好きだった)は、
僕が小学生の頃、鑑賞した記憶がある全てのシリーズにおいて、
「夜」闘っていたことはなかった。
ウルトラマンだってそうだ。

彼らは真っ昼間から海や街をぶっ壊しながら闘っていた。必死に。
それは単純に、CGと特撮の違いだろうが(その辺、無知なのでよくわからん)、
何もごまかしがきかない照明の下でも、堂々と世界に誇れる、
恐らく監督であるギレルモ・デル・トロも熱狂した日本特撮の技術、情熱、
縁もゆかりもないと言えば無い僕がそんなことをふと考えてしまった。


ギレルモ・デル・トロの溢れんばかりのオタクっぷり、
日本アニメ、特撮文化への愛(きっとあるあず…)、
そして何よりも、何度も言うように、僕らが小さい頃描いた夢の具現化…
そんな男としては熱くなるところ満載の映画です。


ゴジラ万歳!
ガンダム万歳!
エヴァ万歳!

映画『風立ちぬ』採点不能



2013年8月10日鑑賞。


僕は特に「ハルキスト」ならぬ「ジブリスト」ではないので、
かなり久しぶりの、下手したら『ハウルの動く城』以来の劇場鑑賞ジブリ作品。
ということからもわかるように、特にジブリへの偏愛というか思い入れはない。
強いて言うなら、「『トトロ』が最高傑作だと思いますけどね」程度。
特にジブリストの方には、そんなことを踏まえて、
「ジブリ素人の戯言」程度の気持ちで読んで頂きたい。


まず第一に個人的な映画の感想を書いてしまえば、
この作品は、「受け入れがたい作品」だ。

あくまでも個人的な意見なので、
ジブリストの人は、
この時点でさじを投げてもらってもかまわない。


では、「受け入れがたい作品」であると結論づけた
その理由を書いていこう。


まず、全体を通しての「中途半端」感が尋常ではない。
主人公の「人生」を描きたいのか、それとも「愛」を描きたいのか、
「仕事」を描きたいのか、はたまた「戦争」を描きたいのか、
「時代」を描きたいのか。

どの角度から映画を切り取っても、
合点がいかない、物語として理解できない。
落としどころもない。気がしてしまう。


「いや、それが逆に深遠な解釈を促すんだよ」

みたいな逆説の鑑賞方法がジブリストにはあるのかもしれないけど、
そんなの知らん。


とにかく何も終わっていないし、そもそも始まってさえいない映画にすら感じた。

それはなぜか?

「世界の宮崎駿」ともあろう名匠が、
そんな薄っぺらいちぐはぐに見えてしまう構成の映画を…
単純にジブリ素人の私の目が節穴という説もありますが…
そこは個人的感想の場を述べているわけだから置いておくとして。


少しだけ考えてみたら、
何となく自分の中で消化しきる術を見つけた。


まず第一に、この映画で圧倒的な違和感を放つポイントがある。


それは、ジブリ映画のマスト条件とも言える
「ファンタジー性」を徹底的に排除した映画であるという点である。

そもそも扱っているモチーフが実在の人物、物語をベースにしているという時点で、
それはそうなんだろうけども、ここに今回の宮崎駿の意図を見た。
あくまでも私見ね。


この物語の主人公(仕事大好きマン)は、宮崎駿自身を投影したのではないか?


俺ってホント仕事好きでさ、仕事頑張ってさ、全てを犠牲にしてきたんだよ。
いや、そりゃ恋愛もしたよ?でもさ、ホントに仕事好きでさ、
ていうか本物の仕事したいならさ、
恋愛も何もかもかなぐり捨てないと成し遂げられないんだよ。
だから俺はそうやって自分の能力信じてやってきたんだよ。
で、結果残したわけ。
最愛の人を失ったことは悲しいよ。でもさ、俺はやってやったよ。
俺は成し遂げたんだよ。「生きた」からこそ成し遂げたんだよ。
だから「生きねば」。


劇中、そんな宮崎駿の心の声が僕には聞こえてきた。
それはこれまでトトロや千と千尋やポニョなど、
夢あふれるファンタジックで幻想的な物語を紡ぎ出してきた
ジブリの森の長とは到底かけ離れた「リアル」で「痛々しい」声だった。

主人公に自分を重ねた宮崎駿は、自分を投影したからこそ、
俺はこれだけの仕事人間だぜ、色々失ったぜ…
でもさ、見てみろよ、一つの作品を作り上げるために
必死になること、夢中になること、
それはこんなにも美しいだろ?
という映画に仕上げた。


それは究極の自己満足なのでは無いか。
それと同時に究極の自己投影映画なのでは無いか。


そう、だからこそ、
自己満足的に終わらせるからこそ、全てどの角度から切り取っても
所詮他人である鑑賞者の僕にとっては「中途半端」に見えてしまう。


つまり、ジブリのマスト条件とも言える「ファンタジー性」を一切排除するという、
自ら長い年月をかけて、身を削りながら積み上げたものへの
アンチというか、逆接をとるという、
「究極のニヒリズム」を彼はこの作品に込めたのではないか。

あのエンディングこそまさに極地であって、

でもさ・・・俺かっこいいだろ?俺は間違ってないんだぜ?

という自らへの慰め、それにしか僕は見えなかった。
そういう意味で、この映画は泣ける。

嗚呼、宮崎駿はもう引退するんだな。
もう充分に頑張ったと自分に言い聞かせているんだな。

そう思うと同時に「ひこうき雲」が流れ始める。
ユーミンが紡ぎ出したその歌詞は、宮崎駿のニヒリズムを助長する。

今はわからない 
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ


あくまでも「ほかの人にはわからない」のだ。
宮崎駿は主人公と同じで、孤独なのだ。

「けれど しあわせ」なのだ。
しかし、その「しあわせ」は本当の「幸せ」なのだろうか?
僕にはそう思えなかった。

彼(宮崎駿)の寂しい笑顔が頭に浮かんだ。

この作品を作りながら、「しあわせ」だ、「しあわせだった」と、
自分に強く言い聞かせる、彼の姿が頭に浮かんだ。
だから、その意味でこの作品は「泣ける」のだ。


宮崎駿は引退するのだろうか。
「ひこうき雲」が悲しく鳴り響いている。




この採点不能は、ジブリ素人の僕が、
何の気なしに観てしまった宮崎駿の作品が、
圧倒的ニヒリズムと化した自伝的最終作品に
見えてしまった事への衝撃、そこから来る採点不能だ。

彼の持ち味である類い希なるファンタジー性を
予期しながらの鑑賞からの落差は尋常では無い。

あくまでも個人的には、ファンタジーで締めくくって欲しかった。
引退するかどうか現時点で何も分かってはいないが、
そんな素人の戯言的には悲しみを込めた採点不能としたい。