注意事項

※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。

2018年1月25日木曜日

『わたしは、ダニエル・ブレイク』89点


Amazonプライムにて遅ればせながら観賞。

静かだが、とてつもないエネルギーを持った映画を観た。
この映画には見過ごされているヒリヒリした現実と
現代社会の縮図が圧倒的な密度で凝縮されている。

あらすじはこうだ。

59歳にして心臓病にかかりドクターストップで
働くことができなくなったダニエル。

そこで国からの金銭的援助を求めて福祉事務所を訪れるんだけど、
まるで松本人志のコントかのように複雑過ぎる手続き。

ようやく乗り越えたと思っても、就労不可の認定が下りないという
不条理ブラックコメディかのような現実を突き付けられる。
で、ついには公務員相手に切れちゃう。













そんな時、同じく理不尽さを目の当たりにして激高しちゃう
移民系のシングルマザーに出会う。
で、ダニエルは彼女をかばい、公務員に切れて追い出されちゃう。












つまりこの映画では、
民主主義国家における「福祉」とは何なのか?
そして、「福祉」とは本来、”弱者”を守るものであり、
いやむしろ”弱者”ではなくても、
”国民”を国家が守る制度であるわけだが
これがいかに機能していないかという現実を
80歳の巨匠ケン・ローチは真っ向勝負で胸に突き刺してくる。

そしてうまいなと思うのが
(80歳の巨匠に「うまいな」ということ自体がコントだが)
ダニエルやシングルマザーのケイティに”THE公務員”的に
マニュアル通りにビー玉のような目で説明対応する公務員達の描き方だ。












観賞者は序盤、まるでコントのように社会(福祉)から見放される
ダニエルに「気の毒だな…」とシンプルに感情移入する。
しかし、公務員に逆切れして、嫌味としか言いようがない暴言を吐いて
立ち去るダニエルやケイティのシーンを見ているうちに
なんだか今度は少しだけ公務員側の気持ちになってしまうのだ。

あれ?この人(公務員)たちも社会制度の被害者なのでは?と。

だって60前後のおじいちゃんが
逆切れしたくなるほどの制度を作っているのは
彼らではなく、政治家なんだから。

現実をなにもわかっていないのは彼らではなく、政治家なのだ。
でも80歳の巨匠は、決して”公務員側の苦悩”みたいなものを
この映画では描かない。
徹底して社会的弱者側の目線で映画を進めていく。
2006年麦の穂をゆらす風』でもパルムドール受賞













その理由はパルムドールの受賞スピーチで語られている。

映画にはたくさんの伝統がある。
その一つは、強大な権力を持ったものに
立ち向かう人々に代わって声をあげることだ。
そしてこれこそが、私の映画で守り続けたいものだ。

この言葉通り、映画は始めから終わりまで徹底して
巨大な権力(政府)批判のスタンスを貫き続ける。
申請が通らなすぎてムカついて役所の壁に落書きして
通りがかりの無職のおじさんに絶賛されるダニエル












80歳の巨匠が描いたその”声”は、
観賞者にこれでもかというほど届いて響く。
知るべき現実がこの映画には詰まっている。
貧困から空腹に耐えかねたケイティは…
このシーンは思わず目をそむけたくなるほど”残酷”だった…















そして個人的に最も泣けたのは、
体調を崩し、家にこもっていたダニエルを
ケイティの娘が尋ね、ドア越しに語りかけたシーンだ。










娘「1つ聞いていい?前に助けてくれた?」

ダニエル「たぶんね。」

娘「じゃあ助けさせて。」

ー無言で扉を開けるダニエルー


泣ける。

”あなたは私を助けてくれた”
だから今度は”私があなたを助ける”

この当たり前といえば当たり前、
人間の”良心的本能”ともいえる行動。
あなたは出来ていますか?
そう問いかけられているようで、観賞後、思わず巻き戻し、
このシーンだけ3回くらい観直した。
まるで道徳の授業を受け直すかのように。

一度は表明した引退を撤回してまで
80歳の巨匠が描きたかったイギリスというか世界の現実。

人と人とはこうあるべきだということを濃密に描いた
2度目のカンヌ映画祭パルムドール受賞も納得の傑作。

90点に届かないマイナス1点は、
”思想が強すぎる”という個人的感覚です。
巨匠、生意気言ってすみません。

2017年6月3日土曜日

映画『メッセージ』94点


去年観たんだけど、正直初見だと理解しきれず
時間が出来たんで、もう一度噛みしめたら最高だった。

これから「好きな映画監督は?」と聞かれたら
「デビット・フィンチャーとヴィルヌーヴです。」
と答えようと思う。

最近では『ブレードランナー2049』が話題に













予告動画を見ればというか、ポスタービジュアルを見れば
みんな大好き「ばかうけ」と酷似していると
話題になった宇宙船












自動的にこの映画は「SF」というジャンルに区分けされ、
「SF」に前のめりになれないある一定層は
観賞動機を失うと思うんだけど、ちょっと待って欲しい。

この映画は宇宙人が出てくるのでもちろんSFではあるんだけど
それと同時に既存のSF映画とは一線を画す革命的な映画だ。

まず、だいたいの映画は宇宙船が襲来してきたら
向こうから攻撃してくるか、こちらから先制攻撃を行なう。
トムクルーズ主演『宇宙戦争』

名作『インデペンデンスデイ』



















とにもかくにも宇宙人は「侵略者」であり
お決まりの勧善懲悪で、人類は頑張って一致団結して
宇宙人と戦うわけだ。

だいたいほぼ全ての地球侵略型SF映画は
上記の3行で説明できるのでは無いだろうか。

だけど天才ヴィルヌーヴにかかれば、
そんな定型文通りの物語は紡がれない。

そもそも原作は、中国系アメリカ人作家・テッド・チャンの短篇
あなたの人生の物語」なのだが、
この作品自体がSFのプロが選ぶネビュラ賞、
日本のSFファンが選ぶ星雲賞、さらには、SFマガジンが選ぶ
2014年のオールタイム・ベストSF投票でも第1位を獲得している傑作。

未熟ながら未読なのだが、実はこの原作のタイトル
あなたの人生の物語」がこの映画を解釈するに当たって
とても重要になると言うことに、最後に気付く。


まず突然宇宙船が地球(世界12箇所)に降りたってきて
みんな混乱しちゃうっていう所までは定型。
こんなのいきなり北海道の大地に出てきたらビビる。










で、ここからの対応がとりあえず自分が今まで見てきた
地球侵略型映画とは大きく一線を画すんだけど、
まずエイミーアダムス演じる主人公の言語学者が
コミニュケーションをとろうとするわけだ。












未知との遭遇が実際に起きたらどうするか?
そりゃそうだ、いきなり攻撃するとか野蛮すぎるし
人類には自らを発展させてきた言語があるわけで。

でもこれって実は並大抵のことじゃない。
そもそも宇宙人に「言語」という概念が無いかも知れないし
あったとしても、その宇宙人にとっての「言語」は
人類にとっての「言語」ではないかもしれないんだから。

あなたが無人島に行って、今まで見たことのない種族に遭遇して
今まで聞いたことも無い言語で話しかけられたとき、
どうやってコミニュケーションをとる?ってことを
この映画は忠実に描くのだ。そんな映画今まであった?

で、ここからが大変。
何ヶ月もかけて謎の円形の文字を手らしきところから
墨みたいなものを発射して伝達してくるタコ型宇宙人。
これを解読する人類。









で、この過程でエイミーアダムスは気付くわけですね。
彼ら(宇宙人)の文字らしきものは円形である。
つまり、彼らには現在過去未来の時間の概念が存在しないと。
円形ってことは始まりとか終わりがないんですよ。

このブログの文章みたいに
「左から右に向かって、上から下に進んでいる」という
時間の概念がそもそも存在しない。












このあたりからこの映画は、
一気に哲学的空気を帯び始めて難しくなっていきます。
実際初見で見たときは脳みそフル回転で見ていても
ギリ置いて行かれるかもって感じでした。
ジェレミーレナーは物理学者役













じゃあコイツらは一体何しに来たんだ?ってことを
解き明かしていくのがこの映画の大きな縦軸になるわけで。
そしてここからがこの映画の真骨頂。

以降、多少ネタバレになりますが、それくらいの予備知識で
この映画観た方が1回で済むって言う考え方もあるので
読者の方に読む読まないはお任せします。

主人公は時間の概念が無いタコ型生命体と接するうちに、
自らも時間の概念が無くなっていきます。
つまり、過去や未来がサブリミナル的に見えてしまうようになります。
未来の自分には女の子が・・・














で、そこで主人公は、ある未来の風景を見てしまいます。
その未来では今タコ型生命体と共に向き合っている
物理学者が自分のパートナーになっているんですね。
”共に研究を進める物理学者が将来の旦那になる”
という未来が見えてくる主人公













しかしそれと同時に嫌な(不幸な)自分の未来を見てしまう。
これはぶっちゃけ宇宙人の話と全く関係ないです。
あくまでも「個人的な」不幸が訪れてしまう未来を見る。
この辺が初見だと何の話なんだろうって思っちゃう所かも。

で、そんな「個人的な」不幸とはまた別に、
彼女が「個人的ではない」”ある未来の風景”を見たことで
タコ型生命体が地球に来た目的を理解し、
人類を救うことにつながっていくんですが
たぶんストレートに侵略系映画のカタルシスを期待している観賞者は、
「なんだよ!これで解決!?」って、
不満をあらわにする宇宙人のアッサリとした撤退ぶりなんですよ。

そんな少しイライラしたあなたに思い出して欲しいのが原題である
「あなたの人生の物語」

そう、これは「あなたの人生の物語」なんですよ。
何いってんだ!とそんな声が聞こえてきそうですが

宇宙人が去ったこの映画の終盤、
エイミーアダムスとジェレミーレナー(「未来」の夫婦)の
2人がある重要な、そして個人的には最もシビれた会話をします。

エイミーは“将来の夫とのある圧倒的に不幸な未来”を観てしまった状態、
ジェレミーレナーはそんな未来のことは何も知らない状態で
この会話をしていると言うことを踏まえて読んで下さい。












エイミー「この先の未来が見えたら、選択を変える?」
ジェレミー「自分の気持ちをもっと相手に伝えるかも」

と、この会話をして、「不幸なことが起きるとわかっているのに」
エイミーは彼と結婚することを「選択」するんですね。
つまり自分が見た不幸な未来を選ぶんです。

しびれますね。
しびれているのは僕だけですか?

もう言っちゃいますけど、タコ型宇宙人が
「3000年後の人類のためにやって来た」
と言っていた目的こそがこれなんですよ。
(と、勝手に解釈して感動してます)

つまり、未来が見えたとしても
そしてその未来が例え不幸だったとしても
(あなたを愛するという)選択は変えない。

という、「あなた(エイミー)の人生の物語」だと。
宇宙人と何も関係ないじゃん!っていう
原作のタイトルの意味がここでやっとわかるわけで。

そして、この人類の「選択力」(=「愛」)こそが、
3000年後も人類が繁栄し続ける大切なことであると。

そんなオシャレな宇宙人未だかつて存在した?
最高かよ。

という、個人的解釈で感動興奮の2度目の観賞ということで
1回見ただけだと雰囲気で85点くらいでしたが
さらに9点プラスして94点とさせて頂きます。


2017年5月7日日曜日

映画『T2 トレインスポッティング』85点(必ず前作を復習(予習)するという条件付き)


シリーズ2作目としては圧倒的な完成度。
だと思うけど、皆さんどうですか?

でもこの映画を面白いとか、相変わらずアホだなぁとか、懐かしいなぁ
っていう様々ないわゆる“トレスポ”視点で楽しむためには、
絶対に1996年に公開され、当時の若者に熱狂的な支持を受けた
『トレインスポッティング』を観るべきだ。
厳密には世代でない自分ですら
このポスター画像は待ち受けにしたことがある。



















だからこの映画の解説というか感想はそれに尽きるんだよな。

「前作を観てくれ。それだけでもうT2は楽しめるから、絶対。」

っていう。

ドラッグまみれでクズ過ぎる彼らには
全く共感出来る要素はないし、
僕らの青春を当てはめられる場所はどこにもないはずなんだけど
なぜか「あ~わかるわかる。あるある。」みたいな感覚に陥るのだ。

またバカやってるよ、こいつら!
愛すべきバカどもだなぁ~!!

みたいな。

何なんだろうこの同士感。

で、やっぱり男ってホントにバカで、
1つのことを根に持つし、
殴り合えばわかりあうし、
欲には負けるし。

っていう男の全てがこの映画には詰まっている。
だから全世界的に刺さったのかな。


なぜかこの4Sに泣ける。

友情と呼んで良いのか分からない
クズ同士の友情に泣ける。

なぜか子供の頃から2人の成長を観てきたかのような
謎の感情移入が始まり、泣ける。





































で、改めて凄いなって思うのが、監督のダニー・ボイルの手腕。

60歳となった奇才

















このブログで彼の作品を書いたのは
『トランス』(78点)くらいしかないが、
アカデミー賞に輝いた『スラムドッグ$ミリオネア』くらいから
悟りの境地に達したのかもしれないって思うほど
スタイリッシュさが完璧に洗練されているというか、
良い言葉が思い付かないんだけど、
圧倒的にスマートかつスタイリッシュだけど、
そのオシャレさがうるさくない上に、しっかりまとまっているという
まさに熟練の技とも言える編集技術。


普通オシャレな編集って、トニー・スコットの『ドミノ』みたいに
いや、めちゃカッコ良いけどやりすぎだよトニスコ!
加工しすぎてパカパカすごいし酔っちゃうよ!!
(※でも1度で良いから真似してみたい!!)
このキーラ・ナイトレイが一番好き。












とか


マドンナの元旦那ガイ・リッチーみたいに、
ロック・ストック~』とか『スナッチ』までは
鳥肌立つほどそのスタイリッシュさに唸ってたけど、
スナッチのブラピはファイトクラブに
引けを取らないくらい最高。














それ以降、「あれ?これこの前と同じパターンのオシャレ?」
「またスローモーションかけて・・・からの~?」みたいな
パターン化したり、オシャレすぎて普通に「見づらい」みたいな
現状に陥りがちなんだけど、
ダニー・ボイル先生クラスになると、もうそんな次元は超越していて、
映像は美しく、かつスマートに収まりつつ、
物語も破綻無くしっかり前作のエピソードを回収しつつ、
「2」という続篇としての意味も持たせて物語を収めるという。

普通シリーズ物の2作目って、
だいたい「あ~あ」って感じになったりするのが関の山だし、
ましてや20年後の「2」ってとんでもないハードルの上がり方だし、
っていうプレッシャーの極限状態の中で
サラッとハイクオリティーの「2」を作れるって、
ある意味1作秀逸なモノを作るよりスゴい気がするんだけど。


そして「2」だからこその、あの「2」でしか出来ないラスト!
おいおい、カッコ良すぎるぜダニー・ボイル!
その編集、どこかでパロディさせてもらっても良いですか?
私が作っているのはバラエティ番組ですけど。


長くなりましたが、とにもかくにも前作をしっかり予習or復習して
劇場に足を運びましょう。

2017年4月22日土曜日

映画『LION ライオン 25年目のただいま』80点


インドで迷子になった少年サルーが、
25年後にグーグル・アースを使い、故郷を探し出す

というウソのようなホントの話を映画化。

アカデミー賞では作品賞を始め6部門にノミネートされた良作。

力強く前を向き続けて感動の再会を果たす
サルーの人生に大いに感動させられたのは確かですし、
映画館に見に行く価値のある作品であることは間違いないのですが
『スラムドック$ミリオネア』の"あの少年”が立派な俳優に!














90点越えの超傑作!と思えない下衆な自分が・・・

で、なんでそんな下衆な自分がひょっこり顔を出したのか、
少し振り返って考えてみたんですけど。

結論としては・・・
 
①GoogleEarthという我々にとっても身近な文明の利器を使って
 25年前の記憶だけを頼りに実家を探しあてるという
 カタルシス感満載間違い無しのストロークで、
 思っていたほどのカタルシスを得ることが出来なかった。
 ※勝手に自分でハードル上げてるだけだけど。

②(大好きな)ルーニー・マーラの使い方

これに尽きる気がします。

まず①に関しては「じゃあお前が描いてみろよ!」
って言われると思うんですけど、
だから先に「無理ですごめんなさい」と謝っておきます。

この映画、音楽はとても良いし、
なにせ迷子になり始め→完全に迷子になってさまよい続ける
シーンなんて、サルーに完全に同化して恐怖心と不安にかられる
素晴らしい映像表現だって事は間違いないし、
まさに天才子役!











インドで孤児化してしまったサルーを
オーストラリアで引き取ることを決意した
濁りのない善意の塊過ぎて、みてるこちらが「俺って何なんだろう」
って恥ずかしくなるくらいの人間力に満ちあふれた
ニコール・キッドマン夫妻の家族愛も観ていて
とても心が温まることも間違いない。

ニコール・キッドマンは助演女優賞にノミネート











実際の写真














だけども、それだけ

迷子→死にものぐるいで迷子生活脱出
→里親の元へ→幸せなオーストラリア生活

という描写がしっかりしているだけに、
なんかあまりにも簡単に見つかってしまった気がしたんですよね。
俺だけかな。

ホントはどうやって見つけたんだろう?
って本当の話を映画化しているのに思ってしまったんですよね。
ウソのようなホントの話だからこそ、
このウソみたいに簡単に見つかったのがホントの話なんです
ってことだとしたら、「あ~そうなんだ。そうなんですね。」
と答えて会話は終了なんですけど。

でもだからこそ、エンドロールで流れる
(この映画絶対最後まで席を立ってはダメ!)
"実際の写真&映像がこの映画で最も泣けた”んだと思うんですよ。

物語(感動)のピークが映画という(ドキュメントを映画化した)
”フィクション”内になくて、
むしろ事実を映画に落とし込んだ映画そのものが壮大な振りになって
最後の実際の映像ドキュメントの感動を増長させるという。

それが狙いなんだよ、なんでそれじゃダメなの?
って言われちゃうと
「あ~そうなんだ。そうなんですね。すみません。」
と答えて会話は終了なんですけど。

まぁあくまでも個人的な性癖に近い戯言的感想ですね。

そして②(大好きな)ルーニー・マーラの使い方
主人公の彼女役で登場













もうこれはアイドルのファンがアイドルの出演映画に
文句言うのと同じ構図ですね。

色んな意味での「もうちょっと無いの!?」

親&母国を捨てた、捨てられてしまった孤児っていう闇を
抱え続けて生きてきた主人公は、彼女に対して
「君は本当の僕を知らないだろ!」って切れるっていう
展開が待ち受けている訳なんですが、そこの展開に至るまでの
「ラブラブからの喧嘩からの和解」の描写がまさに
「もうちょっと無いの!?」
「ルーニー・マーラにもうちょいあげてよ!」って言いたくなりました。
それだけです。

でも出会いのシーンでもある道路挟んでの"あのシーン”は
最高にキュートでしたね。

関係ないけど、個人的に消化不良だったので
ルーニー・マーラの美しい画像貼っておきます。













というわけで色々ほざいてきましたが結局は良い映画です。

2017年3月1日水曜日

映画『ラ・ラ・ランド』99点



オールタイムベストクラスの一本に出会ってしまった。
だから先に言っておくけど、今回は長くなります。
ごめんなさい。


何回リハしたの?君たち最高だよ!













いや、しかし

「この世界観にもう少し浸らせてくれ!
 椅子から立ち上がりたくない。」

と思ったのは、いつ以来なのだろうか。


この映画には、映画が表現しうる
夢や希望や失望や喜びや悲しみや涙や感動や、
とにかく全ての要素が詰め込まれている。

この圧倒的色彩美も最後まで飽きさせない大きな要因。
つまり、美しいものは何時間観ても退屈しないという真理。













それも圧倒的に切ないにもかかわらず、
圧倒的にポジティブでもあるという、
人はそれを矛盾と呼ぶんだぜと、
そう言われるのはわかっているけどやめられない。
そんな映画だ。

ここまでほぼ何も具体的なことを言えていない
稚拙なレビューで恥ずかしくなって来てはいるが、
それくらい人の心を熱くさせる、高揚させる、
極上のエンターテイメントなのだ。

この映画が往年の名作へのオマージュとして機能しているとか、
ミュージカルシーン編集点全然無いけど
どうやって撮ってんだよとか、
プレビューで酷評されたからチャゼルが全部編集し直して
今の完成形があるとか、そういう本物の解説は
本業のプロの方々の評論に任せておくとして、

観ていない哀れ(とまで言わせて下さいごめんなさい。
それくらい価値のある映画です。)な人々のために
ネタバレレビューはなるべく避けるように書いていくが、

まず個人的にこの映画が圧倒的に素晴らしいと思うのは、

夢見るとか、モチベーション高く何かをするとか、
熱く何かに取り組むとか、必死に粘り強く生きるとか、
そう言うのってダサいっすよ。恥ずかしくないんですか?

という類いの現代病とも言えるノリ
(村上春樹先生に一言で形容して欲しい)
って、そこはかとなく我々の職場だけでなく、
皆さんの生活圏内にも漂っているのを
目にしたり感じたことがあると思うんですよ。

で、そんな中この映画は、
そんなノリを嘲笑うがごとく

「夢を見ること?そんなことは全く恥ずかしくないぜ!」
「夢を見て何が悪い?」

と、圧倒的前面に押し出して、
我々にメッセージとして届けてくれるわけだ。
まさに「夢」の世界!










実はこれって一歩間違うと、
(それを間違いと呼ぶかどうかは、
少し議論が必要だが、ここでは論旨がずれるので無視)
→『騎士団長殺し』を読んでいるので
 ( )を使いたい欲求でとりあえず使っているのだ。

話を戻して、
実はこの圧倒的ポジティブメッセージ映画って一歩間違えると、
逆にめちゃくちゃ見てる側が恥ずかしくなる
(ダサい)映画に成り下がる危険性を秘めていると思うんですよ。

熱すぎる熱血ドラマとか、青春物語って、
いやそれがわかりやすくていいんじゃん!ってノリもわかるんだけど、
ルーキーズとか見てると恥ずかしくなって静かにチャンネルを・・・
って心理状態ないですか?私はあります。

そう、つまり、

「夢を見ること?そんなことは全く恥ずかしくないぜ!」
「夢を見て何が悪い?」

ってメッセージを含んだ創作物って、見てる方からすると、

「いやいや、恥ずかしげもなくそういうこと言うと・・・
 恥ずかしいですよ(少しダサいですよそのスタンス)」

ってなりがちなんですよね。たぶん。

でもこの映画の凄いところは、そういう一歩間違えると
大きなダサさに繋がる真っ直ぐなメッセージを恥ずかしげもなく
前面に押し出しているくせに、
受け取る我々観賞者も全く恥ずかしくならないんですよ。

いや、マジでそうだわ!夢見る事って全然恥ずかしくないよ!
夢に向かって頑張って何が悪いんだよ!

って、「自然に」観賞後、思えるんですよ。
これってとてもシンプルな読後感ではあると思うんだけど、
(悪く言えば、凄くチープで在り来たりな読後感)
なかなかそんな映画って無いと思うし、

恥ずかしながらも同じ映像を扱わせて頂いている身として、
得てして「感動させるぞ~!いくぞ~!」
っていうVTRって9割8分滑るんですよね。
いやいやお前のその振りかぶり恥ずかしいぞって。
感動させようと意気込んでるのバレてるぞって。
視聴者の方は気付きます。だいたい。

だから、そういう真っ直ぐで熱すぎる感動させるぞ-!
って映像表現を見た人々は、見終えた後に
何かしらの「まぁとはいえフィクションだしな」っていう
客観的かつ現実的な思考を脳ミソの奥底には誰もが抱えているので、
観賞後数時間後(持ったとしても翌日朝起きるまで)には
その強烈に受け取ったメッセージなんて忘れてるんですよ。
だってフィクションだから。って具合に。

でも、ところが。

この映画を見終えて数日経った今でも、
そのシンプルな読後感は確実に胸に刻まれているんですよ。

このシーンもあのシーンも胸に刻まれていますけど何か?


じゃあそんな一歩間違えるとクソダサい映画になり得るこの物語は
なぜここまで自分を魅了したんだろう?って考えてみたんですが
その要因はとてもざっくり大きくトピック分けすると、

1.シームレスなミュージカル
2.“一見”矛盾だらけの物語
3.賛否両論のラスト

これに尽きます。と思います。

まず1.から書いてみますが、
個人的にはミュージカルって小学生の時からとても苦手で、
演劇観賞会的なもので、ミュージカルを見させられた時も

帰宅後母親に
「なんであの人はあんなにマジメな場面で歌い出すの?
 そんなことってあり得ないよね?」

というむき出しのリアリズムを展開して、
母親をあきれさせた記憶があるんですけども、
このブログの原点にもなっている『レ・ミゼラブル』(70点)
についての感想でも、恥ずかしげもなくこんな事を書いていました。

何が70点かって、そもそも9割以上が歌なんだよこの映画。
何を今更!ミュージカル映画なんだから当然でしょ、と
突っ込みが入る所なんだろうけど、いや、それにしても歌中心すぎる。

何せ全てが歌だから台詞や内容が頭に入ってこない。
そりゃもちろん、ヒュージャックマン、アンハサウェイ、
ラッセルクロウをはじめとする俳優陣の歌唱レベルの高さには
驚きと共に感動すら覚えたけど、なにせ歌ってるから入ってこない。


という、『ラ・ラ・ランド』に99点を付ける男とは思えない
(そもそもお前何様だよ感すごいぞ。
 若いって文章に勢いをもたらすんだな。)
レビューを残しているのだが、
つまり自分には元来このテンションがあったわけで、
観賞前は当然不信感を持って椅子に座った。

だが、この映画がそんなミュージカル嫌い原理主義者の自分を
魅了というか、アレルギー反応を起こす隙を
一瞬たりとも与えなかった理由というのが
「シームレスなミュージカル」というポイントにある。

このシーンはめちゃくちゃ好き。何回でも観たい。













つまり、この映画は「そこで歌うの?」的、
ミュージカル苦手芸人が陥る「冷めちゃう瞬間」が無いのだ。

全てがその時々のバックミュージック的役割にも見えるし、
歌そのものが、その時の「シーン」として圧倒的に機能しているので、
「いやいやそこじゃ普通は歌わないよ。君頭おかしいの?」
という「ミュージカル、現実に引き戻される問題」が発生しない。




→このシーン、途中でエマが笑うんだけどアドリブなのかな。
 最高に自然で最高にほほ笑ましい1シーン。

だからずっと『ラ・ラ・ランド』の世界の中にいられるのだ。
ここはミュージカル嫌いにとって圧倒的に大きい。


そして、2.“一見”矛盾だらけの物語 だが、
この映画は時代設定が全くよく分からない。
70~80年代のハリウッドかなと思ったらiPhoneが鳴り出す。

そういう時代考証が完全に無茶苦茶な状態で物語は進むんだけど、
その矛盾が矛盾として存在していない(ように見える)。

なんで矛盾と感じないかって、
それは圧倒的クオリティのオープニングに
(数分間の1カットミュージカル)










主役の2人は1秒も出てこないということが重要で、
つまりこの物語の主役は、もちろんエマとゴズリングなんだけど、
彼らも『ラ・ラ・ランド』で夢見た、夢見る人達の一部に過ぎなくて
この映画はそんな“『ラ・ラ・ランド』で生きる人達”から始まるのだ。

だからそんな時代を超えて夢を追い求めて人々がやってくる
『ラ・ラ・ランド』には時代考証なんて必要無くて
そこで、夢を追い、夢に散り、夢を叶えた人達、
全ての人々を描き、捧げる、そんな「夢物語」なのだ。
と、勝手に解釈して震えてる。

チャゼル先輩(俺の1個上でさらに震える)、間違ってらごめんなさい。

だから、そんな序盤から圧倒的クオリティの映像美で
「夢物語」に完全に引き込むことに成功している時点で、
時代の矛盾なんてウンコ。関係ない!気にならない!のだ。


そして、長くなってきて読む人も書く方も疲れてきたところで
3.賛否両論のラスト について。

これは、賛否の「否」を唱えてる人とは、
友達になれる気があまりしないと、
ここに高らかに宣言しておくけど
(そちらもなりたくないであろうから放っておいて下さい)

この映画は、“あのラスト”だからこそ傑作であるのだ。
見た人にはわかる“あのラスト”
あの状況でこの顔出来る?いや、出来ないよなかなか!












ネタバレしないように書くのめちゃくちゃ難しいんだけど、
(以下、若干ネタバレしてるから読みたくない人は離脱を)



“あのラスト”でもし2人が“抱き合っていたら”
この映画は80点くらいの普通の秀作で終わっていたと思う。

しかもチャゼルが憎い、憎すぎるのが、
“あのラスト”に向かうとても大切なストロークに
“あの理想郷的な走馬燈”を差し込んできたことだ。

私は恥ずかしながら(いや、恥ずかしくなんて無い!)、
“あの理想郷的な走馬燈”で、
ゴズリングがガッツポーズしたシーンで泣いたよ。

“あの理想郷的な走馬燈”の冒頭で、エマが乗った車は
高速道路を「降りる」という演出も徹底的に憎い。

「降りた」エマが辿り着いたのは・・・









冒頭の美しすぎる
「夢を追うもの達が渋滞をなす高速道路」を「降りる」のだ。
くー!!!!!チャゼル!!!!!!

くー!!!!!しか書けない自分の背中を綿矢りさに蹴って欲しい。
そして金原ひとみにフィットする形容表現で書き上げて欲しい。

そして、この物語のラストについて最後に書いておくと、
このラストをハッピーエンドと捉えるか、バッドエンドと捉えるかは
解釈が圧倒的に分かれるところだと思うのだけれど、

個人的には、監督が「2人が微笑む」という選択肢をとったことに
とても意味があると思う。

あのまま一度も振り返らず、その姿を目で追うこともなく映画が終われば
それはもう超リアリズム恋愛映画の傑作『ブルーバレンタイン』95点
(奇しくも同じゴズリングが主演!!)
匹敵する超重量級の顔面パンチを食らって、
3日くらい後遺症を引きずる後味になると思うんだけど、

“あの微笑みのラスト”という着地によって
“圧倒的にポジティブで清涼感あふれる読後感”
を得ることが出来るわけだ。

そんな私はもう『ラ・ラ・ランド』の住人。

この映画をDVDで見る人は確実に人生を損していると断言します。
私レベルで恐縮ですが、断言します。

ちなみにマイナス1点は、「ほんの少し長い」それだけです。


最後に実はもう一箇所涙しそうになった、
終盤エマが歌い上げる『AUDITION』を貼り付け、
このレビューを閉じたいと思います。



どうか乾杯を やっかいな私たちに

大事なのは少しの狂気

夢追い人たちに、乾杯

2017年2月22日水曜日

映画『ハドソン川の奇跡』92点


2009年に実際に起きたUSエアウェイズ1549便不時着水事故、
通称“ハドソン川の奇跡”を巡る事象を巨匠イーストウッド先生が映画化。
実際の現場写真











トム・ハンクス演じる機長が操縦する旅客機が離陸後、
エンジンに鳥が飛ぶ込み、まさかのエンジン停止。
副操縦士のアーロン・エッカートも良い味出してました。














墜落まで残された時間は4分弱という発狂しかねない極限状態で
管制塔からは空港にUターンすることを指示されますが、
圧倒的な経験値からくる彼が下した決断は・・・

早速イーストウッド“先生”と、言いたくなる傑作ですこれは。

批評や説明など必要無い!ビューティフル!
って感じなんだけど、あえて言うのであれば、

「96分」という映画館観賞において圧倒的に歓迎される
おしりが痛くならない「適尺」ながらも、
その内容はというと、決して駆け足すぎたり、
脚本に破綻が来すことは全くない。

ポジティブな意味での「ザ・アメリカ社会」を
リアリティーを題材に丁寧かつスリリングかつ感動的に美しく描き、
さらに読後感は圧倒的に爽快で消化不良感ゼロ!
さらにさらにテンポ感も抜群!
お尻痛くない!トイレ行きたくならない!さすがです巨匠!
個人的にはこのシーンが一番好き。
完全に検察側を論破!最高に気持ちいい!












やっぱり86年も生きないと、
このレベルの脚本&編集技術は身につかないんですかね巨匠・・・

2017年2月4日土曜日

映画『沈黙-サイレンス-』83点



遠藤周作の名作『沈黙』を巨匠スコセッシが映画化。
ずっしり来る秀作だった。


各キャストの名演振りはもちろん強く印象に残っているが
個人的には、

“誰か”が“自分ではない何か”を「本当に信じる」ということは、
ある意味その時点で、その”誰か”の“死”を意味する

ということだ。

「人を信じる」ということは、「究極、そいつのために死んで良い」
ってことなんだ。って事をこの映画は痛いほど突きつけてくる。


だからそんな決意もないのに「あなたのこと信じてみようと思う」とか
メロドラマ的セリフを吐きべきではないのだ。日常において。


そんな怒りはさておき、

遠藤周作の『沈黙』と言えば、高校生か大学生の頃に
『海と毒薬』と合わせて読んだのが最後だから
その時に感じた「ずっしり感」は脳みそにかろうじて残っているものの
詳細な物語の流れは忘れていた。


簡単この物語の内容を言うと・・・


17世紀、キリスト教が禁じられた日本で
棄教したとされる師の真相を確かめるため、
日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。

2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという
日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、
厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく・・・

という話。


目の前で踏み絵させられたり、キリスト教徒であることがバレてしまい、
「転ぶ」=棄教することを迫られ、様々な残酷すぎる拷問に処される
キリスト教徒達を目の前にしても「神」はなぜ「沈黙」するのか?

これほど「神」を信じて行動しているがゆえに拷問、処刑されている
教徒達をなぜ神は「黙って」見ているのか?
助けてくれないのか?









映画監督でもある塚本晋也が怪演。本当に苦しそうだった。

















っていう禅問答のような神への疑念をひたすら突きつけられるわけだが
この映画の面白いというか肝にもなっているのが
踏み絵で隠れキリシタンを取り締まる幕府側の人間達のスタンスだ。


彼ら(イッセー尾形とか浅野忠信とか)は、

これ形だけだからさ。
とりあえず踏んだら死なずにすむんだから踏んじゃいなよ。
踏んだらもうそれで良いからさ。密かに信仰してれば良いじゃん。

と、徹底弾圧と言うより超絶カジュアルに棄教を迫る。
イッセー尾形。絶妙に嫌な奴で最高だった。
















なぜなら、弾圧に対し最後まで抵抗して死罪になると
そのキリスト教徒は「殉死」した「英雄」になってしまうからだ。
これでは弾圧すればするほどキリスト教徒が団結するという
負の連鎖を生んでしまう。

そしてアンドリュー・ガーフィールド演じる宣教師ロドリゴは
目の前で残酷すぎる拷問で死んでいくにもかかわらず
自分たちが信じた神は沈黙して何もしてくれない、助けてくれない・・・

俺が棄教すれば、この人達は死なずに済むのだ・・・
でもそれは神を裏切ることになってしまう・・・

そんな葛藤に葛藤を重ね、ついに彼は「転んで」しまう。















自分はそんなに強くない。
でもそれで良い。それが自分だし、それが人間だ。

宗教のために死ぬ。目の前で人が死んでいく。
自分が「キリスト教辞めます」って言えば救われる。
それでも辞めない!と言い続けられるほど自分は強くない。

そんな弱い自分を受け入れてくれる神は存在しないのか?
いや、存在してくれるはずだ。

そんな葛藤を手に取るように感じながら見ていたのだが、
そもそも観賞前から大きな疑問だったのが

「スコセッシはなぜ何十年もの苦労を重ねてまで
 日本の文学作品を映画化したのか?」

ということだ。

でも161分にも及ぶ大作を観賞し終えて、
勝手ながら少しだけ分かった気がする。


キリスト原理主義的なスタンスからすると、
「転んだ」人達は確実に裏切り者だろう。

だが、「生きる」ために表向きは「棄教」を宣言し
「沈黙」しながら「隠れキリシタン」として生き続ける
キリスト教徒を許しても良いのでは無いか?

事実、金のために隠れキリシタンを密告したと思ったら
俺の罪を神は許してくれるかな?とか泣きながら告白したりと
ことごとく神をおちょくって口先で生きてきた
窪塚洋介演じるキチジロウは、最後まで生き延びたのだ。















だって死んだら意味ないじゃん。
とでも言うかのように。


っていうことを
自らも洗礼を受けた身で有りながら、1966年に『沈黙』という作品で
世界に発信した遠藤周作という作家は革新的だったんだなと思う。

そしてそれを1度頓挫しながらも映画化したスコセッシの執念。

7割以上がキリスト教徒と言われるアメリカで
原理主義者の攻撃にあうことは容易に予想される中
映画化したスコセッシの執念。

色々なものが濃密に濃縮された161分。

そして何よりも
これってアメリカ人はどう見てるんだろう?
感想聞きたいなって思いましたが
アカデミー賞にほぼスルーされている感じがその答えというべきなんでしょうか。